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2020年、ぼくがリアルに体験することのできたコンサートはただ一つ、東京のNHKホールで行われた中島みゆきの「2020ラスト・ツアー 結果オーライ」のみだった。
いまから考えると、新型コロナウイルスの感染が拡大していた2月13日に、コンサート会場まで足を運ぶことができたのは、音楽の神様による導きだったように思う。というのも、急に見つかった大腸がんの手術のために、ぼくは前年の10月下旬から11月にかけて1カ月ほど入院し、無事に退院したところだったからである。
そして体力の回復を待ちながら自宅療養していたところに、45年来の仕事仲間であるデザイナーのAさんに声をかけられて、コンサートに招いていただいたのだった。
その夜は、みゆきさんの歌声と音楽を全身で聴きながら、自分が生きていることに、初めから終わりまで感謝し続けた。
終演後は真っすぐ自宅に戻って横になり、パンフレットを見てコンサートの余韻を味わった。そのときにふと思い出したのが、ヤマハ音楽振興会をつくった故・川上源一さんの言葉だった。
さっそく、著書『子どもに学ぶ』を手に取って、川上さんの言葉を読み直しているうちに、深くうなずかされることになった。
「人に音楽を聴かせるというのは、自分の感情を伝えるために必要なテクニック、演奏する力はどうしても必要だけれど、必要なテクニックができているなら、自分の人となりや自分の気力や感情を、思いきって、命がけで伝えることなのだと思う。命がけで伝えないと、感動というものは、呼び起こせない」(川上源一著『子どもに学ぶ』)
音楽を表現することの本質と人間の感動を、実にうまくとらえている言葉だと思ったからだ。
◇
1975年5月18日に開催された「第9回ポピュラーソングコンテスト本選会」の入賞曲で、中島みゆきがプロとしてデビューするきっかけとなったのは、『傷ついた翼』という作品であった。
だが、『アザミ嬢のララバイ』より先にレコード化の話もあったという“幻のデビュー曲”は、その年の12月になってから、シングル『時代』のカップリングとして世に出た。
しかし、事前の段階から評価が高かったので、この曲がグランプリに選ばれる可能性も十分にあったらしいのだ。そのことが『中島みゆき第二詩集 四十行のひとりごと』の「ぜったいグランプリ」と題した詩によって明らかにされていた。
そこに日付順に描かれている出来事は、みゆきさんにとって大きな節目になった1975年の重要事項である。登場する狂言回し的なわき役は、地方の放送局で働いていた、ぺーぺーのディレクターとアナウンサーだった。
『中島みゆき第二詩集 四十行のひとりごと』から、当該箇所を引用する。
3月16日舞台袖の暗がりで二人の男が跳び上がり喜んだ
地方局ぺーぺーディレクターとぺーぺーアナウンサーが
一次予選前から何度も取材を重ねて来たのは
この後の全国大会で私が優勝すると予想しての事だった
ヤマハが主催するポピュラーソングコンテスト(略称=ポプコン)の最初の関門、北海道予選が行われたのが3月16日だった。
その1年前にヤマハの北海道支社に入社した高瀬清志氏は、ポプコンの前身である「ライトミュージックコンテスト」の北海道大会でグランプリを受賞し、その後にヤマハから声をかけられて、大会運営のスタッフになっていた。
高瀬氏は今世紀になってからだが、当時のポプコンの仕組みについて、こんな話を語っている。
「東京のポプコンに出るには、まず数曲録音してポプコンの主催である財団法人ヤマハ音楽振興会に送ると採点されて返ってくるんです。北海道支社はそれまで10点中5点以上取ったことがなかったのに、中島みゆきは10点満点。すぐ東京に連れて行け、という指示が出て、あとは皆さんもご存知のとおりの活躍です」(「インタークロス・クリエイティブ・センター」ホームページより)
こうして東京に連れていかれたみゆきさんは、ヤマハのオーディションを受けて合格し、その場で川上さんにも会っていたであろう。そのためにキャニオンレコードからデビューする話が、順調に進んでいったと考えられる。
しかし、5月18日に静岡県の「つま恋」のホールで開催された全国大会で、みゆきさんは期待に応えることができずに終わった。グランプリを逃した『傷ついた翼』は、優秀曲賞の3作品にも選ばれなかったのだ。
5月18日全国大会 かんじんの私が落ちた
「番組は取り消しになりました 残念です」
地方局のぺーぺーたちはここまでしか同行を許されず、番組企画は未完成のまま、あきらめるしかなかった。
しかし、みゆきさんには嘆いている時間がなかった。すぐに気持ちを切り替えて、ここから次の挑戦に取り組んだ。なぜならば秋の大会に向けて、自信作の『時代』をエントリーしていたからである。
9月7日ふたたび北海道大会優勝
舞台袖の暗がりに ぺーぺーたちの姿はなかった
彼女は目標に向かってもう一度、自らが先に立って進もうとしていた。
ところがここで、誰も予想していなかった事態が起こった。『時代』が出来上がったときには元気だった父が倒れて、意識を失ったままになったのである。
「ぜったいグランプリ」の詩から、ふたたび日付と文章を引用したい。
9月16日早朝 父が脳出血で倒れた
10月12日全国大会優勝 世界大会出場決定
父は意識が戻らぬまま眠りつづけていた
みゆきさんの父は個人で産婦人科の開業医を営んでいた。そこでただ一人の医師が倒れてしまったら、経営が成り立たなくなるのは自明の理である。
回復の兆しがみられないために医院を閉めなければならなくなり、小銭までかき集めて従業員に給料を支払った。そして家族は身の回りの物だけをまとめて、親戚を頼って遠い町へ移ることになった。
日本武道館で開催されるヤマハの世界歌謡祭は、予選が11月15日で、ここをクリアできれば翌日が本選だった。これまでに最も大きな舞台に出場するみゆきさんが東京に向かう日、北海道の十勝はすでに冬が始まっていた。
そして、誰にも知らせずに発つはずだった駅の改札口には、ぺーぺーの二人がひっそりと佇んでいるのが分かった。
どうやって知ったのか さすがは放送局
離れ始める列車へ目礼していたペーペーディレクターが
突如 全力でホームを走り出し 何か叫んだ
ペーペーアナウンサーも全力で走り 叫んだ
「………グランプリっ!」
「………ぜったいっ! グランプリぃっ!」
凍りついたホームの端まで二人は突っ走り 叫び続けた
一九七五年11月16日 日本武道館
世界歌謡祭グランプリ 受賞曲は「時代」
その後彼らが何処へ移されて行ったのかわからない
その後私があの町をふたたび訪れる機会もない
あえて詩集の中にさりげなく書き下ろしたこの話を読んだことで、ぼくは不思議な感動にとらわれてしまった。
ポプコンや世界歌謡祭にまつわるさまざまなエピソードは、これまでにも何度か目にしてきたけれど、それらをひとりの人間に起こったひとつながりの出来事として、時系列に沿って見ていく視点はなかった。
それが『中島みゆき第二詩集 四十行のひとりごと』が刊行されたことで、人生における一大スペクタクルだったことが分かったのだ。
「ぜったいグランプリ」の最後は、こんな文章で終わっている。
でも私はいつだって あの早朝をありありと思い出せる
凍ったホームを突っ走りながら叫んだぺーぺーたちの
「ぜったいぃーっ!!」
「グランプリぃーっ!!」
はたからみれば淡々と生きているように見える23歳の中島美雪は、そこから日本を代表する表現者の中島みゆきとして成長していったのである。
【さとう・ごう】1952年岩手県生まれ、仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。シンコーミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートを手がけている。
テレビドラマ演出家・久世光彦氏のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では構成と演出を担当。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。著書に、ノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」——天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)など。